「日置桜」は鳥取県鳥取市のお酒です。
「日置桜」の名前はどこから
「日置桜」を醸す山根酒造場は鳥取県鳥取市青谷町(あおやちょう)にあります。かつて、日置の郷(ひおきのさと)と呼ばれたその地域は古代因幡の国の時代から日置川流域に栄え、『古事記』、『日本書紀』にも記載があります。
“日置(ひおき)”の語源は、戸置(へき)と読み、民戸をつかさどっていた注1とする説や、引田などのように“低い”を表す説など諸説あります。いずれも日置川流域で長年にわたり、地元と密着した発展を遂げてきたことと結びついています。次第に行政区域の合併が行われ、1955年に現在の青谷町に組み込まれました。(昭和59年発行青谷町誌より)
注1:戸(こ/へ)とは、律令制において戸主とその下に編成された戸口と呼ばれる人々から構成された基本単位集団を指し(Weblio国語辞典参照)、その集団を支配・管理していた
そこは日本海側に面した雪の多い地域。川のほとりには旧正月に満開になる早咲きの桜注2の木があり、春を待ちわびる人々の心を癒してきました。山根酒造場は明治20年の創業以来、村のシンボルでもあったその桜から名前をとり、主銘柄「日置桜」としました。
樹の世代交代はありましたが、現在でも樹齢93年(2023年現在)の“日置谷の寒桜”は有志の方々に大事に手入れをされて、毎年力強く花を咲かせているそうです。
注2:寒桜
早咲きで知られる河津桜よりも開花は早く、開花は2月から3月。花は一重で実はつかない。栽培品種。日置谷の桜も1月中旬から咲き始め、2月中旬ごろ満開になる。年によっては雪とともに見られることもある。(参照:みんなの花図鑑)
「日置桜」のラインアップ
≪定番≫
山根酒造場の看板で定番商品の「日置桜 純米酒」と「日置桜 特醸純米酒」です。
純米酒は米の旨みを引き出すことを最優先した「日置桜」のスタンダード商品。
特醸純米酒の方は酸味の味わいが楽しめます。山根酒造場ではこの酸味を“強靭な芯とハネのある酸味”と表現しています。
≪強力(ごうりき)≫
「日置桜」を冠名とする商品のなかでもひときわ力強い書体で目をひくのが「強力(ごうりき)」です。
“強力(ごうりき)”は鳥取特有の酒造好適米です。お米の心白(しんぱく)注3が線状型で横に長く、どの方から削ってもうまく削れるため高度な精米ができるとされています。この心白を持つのは山田錦、雄町、強力の3種類だけ。
注3:心白(しんぱく)とは米の中心部が白濁して見える部分。デンプン構造で光が当たると乱反射して白濁して見える。心白があることで、麹菌の菌糸が中心まで繁殖しやすいというメリットを持つ反面、崩れやすく削りにくいというデメリットを持つ。形状により分類され、山田錦、雄町、強力は線状心白に類する。(参照:日本酒の基 2021年6月発行)
山田錦の祖先は雄町。その雄町は鳥取から岡山へ農民が持ち帰ったとされる品種なので、雄町と“強力”は兄弟。つまり山田錦のルーツは“強力”になるわけです。線状心白を持つ酒米の中でも“雄町”はやわらかいという特徴がありますが、“強力”は酒造適性がよくお米が固く溶けにくいため味がよくなるという性質があります。
品種登録したのは明治の終わり。しかしその後、育てにくいという理由からこの品種は敬遠され、生産が途絶えてしまいました。
奮起したのは4代目当主(現在の当主は5代目)の山根氏。鳥取独自のお米を使って酒造りをしたいと鳥取大学に保存してあった種から育苗し、そこから取れた種を年月を掛けて増やしていきました。初めて仕込みが完了したのは平成元年。今では鳥取県内の酒蔵数社が“強力”を使ったお酒を仕込んでいます。注4
注4:兵庫県内でみられる“強力”は“但馬強力”と呼ばれ、鳥取から広まったもの。
“強力”の稲は150cmほどの高さがあり、稲姿が力強く、萱(かや)のように野性味があり、たくましい。そんなイメージが伝わるように書家にラベルの字を書いてもらったそうです。
≪季節商品の「山」シリーズ
季節商品で俳句の季語を使った「山」シリーズも粋な装いです。
冬-「山眠る(やまねむる)」
冬の「新米新酒のしぼりたては冬の山の静まり返った様子を表しています。
春-「山笑ふ(やまわらう)」
春の季語で「山笑う」から名付けた6年に一度しか出荷されない希少酒。
正岡子規の句にも「故郷や どちらを見ても山笑ふ」とあるように、春の芽吹きはじめた華やかな山の様子を表しています。
夏-「山滴る(やましたたる)」
「草木の葉で覆われて緑が滴るように見える夏の山を形容する言葉(Weblio大辞泉)」からとった「山滴る」。
夏山の石清水を想わせる仕上がりだそうです。
秋-「山装う(やまよそおう)」
紅葉で美しく飾った秋の山を表す季語から名付けられました。
春に火入れした新酒をひと夏越して熟成させたお酒で、穏やかで落ちついた香り。滑らかでとろみのある口当たりが特徴です。
山根酒造場について
(有)山根酒造場の創業は明治20年。
青谷地区は天保の時代(1840年頃)から酒造業が盛んで、一時は造酒が売りさばけないので他藩への販売を許可してほしいと願い出るほどだったといいます。鉄道のない時代、港のある青谷地区は酒の輸送に適していました。
しかし、最盛期には県下に400軒以上あった造り酒屋も時代とともに衰退し、青谷地区に残ったのは一時期、山根酒造場ともう1軒だけになりました。(昭和59年発行青谷町誌より)
現在の山根正紀氏は5代目蔵元当主。社員は10名程度。年間およそ400石を醸す蔵元です。
国内出荷だけではなくマレーシア、オーストラリア、米国などへも輸出していますが、山根氏いわく、“ただ売れればいいというわけではなく、原料にこだわり、自分が造りたい酒を出そうとすると数量は400石が適量”だそうです。
~山根酒造場の挑戦 その1 ≪Canon カノン≫~
4代目が鳥取産の酒米“強力”にこだわったように、5代目も常に挑戦し続けています。
その一つが一期限りの限定品として造った「Canon(カノン)」。
あるワインとの出会いがきっかけで、美味しいだけでは表現できない“妖艶さ”を求め、今までの酒造りとは真反対の方法で仕込んだそうです。しかし、それによって逆に大吟醸の酒造りの方向性が確認できたといいます。
Canonという名前はヨハン・パッヘルベルの名曲にちなんでおり、仕込みのパターンがカノンの構成進行に似ていることから社内で使っていた通称をそのまま銘柄にしました。山根酒造場ではめずらしいアルファベットの銘柄です。
~山根酒造場の挑戦 その2 ≪井戸掘り≫~
もう一つの驚くべき挑戦が“井戸掘り”です。
今使っている湧き水は超軟水。軟水なりの利点はありますが、ミネラルが少ない、酵母の活性が弱いなどの特性もあります。今までのやり方をずっとやっていたのでは変わらない、それなら水を変えてみようと井戸を掘ることを決意したというから驚きです。
現在(2023年春)掘削中で、うまくいけば来年度の仕込みにミネラルの多い水を使った新たなお酒ができるのではと頑張っているそうです。
≪辛い酒ではない“甘くない酒”造り≫
お酒造りを簡単に言うと、お酒はお米を発酵させたもの。桶の中で発酵するもろみの糖分を酵母菌に食べさせ、アルコールに変えたものがお酒。酵母にどれだけ糖分を食べてもらうかで、甘さの度合いが変わります。つまり“辛さ”の成分を加味するわけではないので、山根氏は“辛い酒”という表現は使わないと言います。
山根酒造場では糖分を酵母で“食いきらす”酒造り(完全発酵型)をしていて、これが本来醸造物のあるべき姿だと考えているそうです。
最後に5代目山根氏からのメッセージです。
“昨今、日本酒は多様化していてとてもおもしろくなってきています。ただ、おもしろさを知るためにはある程度の学習をして知識が必要。学習の方法、切り口は様々だと思っています。
その世界に一歩踏み込んでみませんか。そうすれば他にも通じるおもしろさがあるはず。“
取材日時:2023年5月23日(ZOOMにて)
取材協力:(有)山根酒造場 五代目蔵元当主 山根正紀氏
画像提供:山根酒造場
取材後記:
絵にしても本にしても、作品を見ると作者の人柄が見え、また作者を知ると作品の味が深くなる。お酒も同様、いくつもの蔵元への取材を通して感じる印象です。
お酒に出会い、ん?おもしろいな、美味しいなと思って蔵元のお話を伺うと“この造り手あってこそのお酒”という実感が湧いてきます。今回の取材もまさにそんな感じでした。
「日置桜」に最初に出会った印象は、決して飲みやすいお酒ではないけれど、なぜか気になる深みのあるお酒。お話を聞いて納得しました。
“世に媚びない酒造り”をキャッチフレーズにしているという山根氏。
少しとっつきにくい(失礼)印象はあるけれど、お酒造りへの信念がまっすぐに突き刺さってくる感じ。でもふとした柔らかい表情や蔵元のサイトに書かれている細やかな表現を見ると、「日置桜」の深みのある味がより増すような気がします。
日置の郷(青谷地区)は「因州和紙」という千年続く和紙の産地としても知られているそうです。きっと昔から水がきれいで寒桜がよく似合う地域だったに違いありません。
名古屋ではなかなか季節商品や限定商品に出会うことはできませんが、見かけたときにはその郷に 想いを馳せながらいただきたいものです。
なお、この記事の執筆にあたり、青谷町の資料・情報をご提供くださった鳥取市役所、青谷町総合支所地域振興課、松原雅彦氏に深くお礼申し上げます。
参考資料:青谷町誌 昭和59年7月25日発行
青谷町ふるさと読本 平成6年3月発行